動画撮っていいですかを断られたはなし
YouTubeを始めようと思って。
最近ハマっているハイキングを動画にしよう!
って、歩きに行くたびにスマホで動画を撮ってみてる。
緑と土のある中を歩くのが癒されすぎて、これを仕事にしたい。。。と本気で思ってしまった。(しごと??仕事にできるん?)
なんて無茶なことをといつもなら全然あっさり諦めるかもしれないのだけど
山の中が魅力的すぎるのですよ、ええ。
もう私はまっしぐらだった。
(ちなみにまだチャンネル名も決められないでいるような状態)
私が自分を映す訳でもなくただひたすら歩いているだけよりは、
ハイキングに行った先で美味しいお店に入ったり、買ったり、お店紹介もできたら見ごたえあるんじゃないかと思い
「なんていいこと思いついたんだ!」と早速ハイキングに出かけてそこの最寄り駅でお団子を購入してみた。
お店で勝手に撮影して載せるのって良くないよね??
確認した方がいいよね?
私も飲食店で働いていて、店内でお客さんが食べてる自分の姿を動画撮影したりするんだけど。。。
私は許可を取ろう!
そう思っていざ声をかけてみた。
「ショーケースとか外観とかを動画撮影ってさせてもらっても大丈夫ですか?」
なるべく丁寧に聞いたつもり。。。
だけど店頭の女性が「え」と言って困っていた。
奥からご主人が出てきて、女性がご主人に聞いてくれた。
ご主人から出た言葉は
「撮ったやつをどっかに載せるとか困るんだよねー」
と腹から出たちょっと怒った声だった。
う。。。(コワイ。。。)
それ以上「写真ならいいですか!」とかも聞けなかったビビりな私。
返答いただけたことに感謝の言葉を笑顔で述べてもうそれだけで精一杯。
ご年配の方がされてる老舗和菓子屋さんだし、そうゆうのは好きじゃなかったかもね。
仕方ない仕方ない。言い聞かせるも、私はへこみすぎて一気に自信がなくなった。(単純)
ハイキングの帰りは気になってたラーメン屋さんに行きたかったけど、怖くなってしまって入ることができなかった。
しかも私は、一人で飲食店に入ることが苦手なのだ!
(なぜ動画撮ろうと思えたのか・・・)
ただでさえおひとり様で入店が緊張しすぎてできないのに、よくもまぁ動画撮影許可も聞こうと思ったものだ。
と今更ながら自分の力量以上のことをしようとしていたことに驚く。
もしかしたら「お店紹介してあげる私すごい」とか「ちゃんと許可とる私えらい」なんて自己満足的な考えが私からにじみ出ていたのかもしれない。
怖いのは私じゃないか。
さて、動画の内容に飲食店入れることは諦めようか
できそうなお店で再度頑張ってみようか。
ラグマットにこぼした思い出
今週のお題「こぼしたもの」
こぼしたもの。
こぼされたもの。
うちのラグマットには無数のシミがある。
夏用のひんやりしたマット。サラサラな手触りで今まで編み込んだようなものしか使ったことがなかった我が家としては新鮮な気持ちで購入した。
大事につかう。とはほど遠い私たち家族。
買ってすぐから、小学生の娘はもちろん40過ぎた旦那も私もこぼしてあっと言う間にシミだらけとなったラグマット。
最初のうちはこぼしてしまったらすぐにとんとん叩いて一生懸命落としていたけど
日にちがたつともうやらない。
私が見ていないときに汚してたものなど無数に増えていつの間に!な汚れもあるし
「もーいいや」とほったらかしになってしまう。
ずっとずっと置いておきたければ、最初の頃と変わらずに淡々と手をかけていけたらいいのに。
心変わりすることなく丁寧に扱っていける自分だったらいいのに。
先日長男が一人暮らし出発前に我が家で食べたカップ麺のスープをなんとも派手にこぼして大きなシミができていた。
「できるだけ拭いたんだけどね。置き土産だよw」なんて言ってる。
ラグマットは、もう肌寒い季節になってきたこともあり処分しようかと考えてる。
次の新しいラグをまた最初だけ大事にして過ごすことになるんだろうな。
相変わらず最初だけがんばってとんとん叩いて汚れ落とししよう。
きっとたくさん汚れてしまったこのラグはたくさんの思い出も染み付いているに違いない。
リセットされたらまた新しい思い出がいくつも跡を残すことだろう。
(結局のところシミ・・・)
宣言が向く人向かない人
何かを始めるときに、家族や友達に宣言するといいとよく聞く。
ダイエットを始めるとき「〇kg痩せる!」とか
お金を貯めるとき「〇〇円貯まるように頑張る!」とか
やり遂げたいことがあるときとか
約束を守る(結婚式の誓いの言葉とかもみんなの前で言うイメージ・・・)
みんなの前で言ってしまったのだから、やるしかない!ってことでしょうか。
一般的にそう聞くのに、私にはそれがまったく当てはまらない。ということが子供の頃から気が付いていた。
「言って満足する」タイプなのだ。
今読んでいる益田ミリさんの本に
「始めるんだーと人に言いふらした時点で満足していうふしがある」
と書いてあった。
まさに私もこのタイプで、他にもそうゆう人がいることを生まれて初めて知った驚きと嬉しさを感じた一文だった。
私は小学生の頃、欲しかった手芸キットを買ってもらい
親戚にまで「今こうゆうの作ってるの!出来たら見せるからね~」って言いふらしたら
言ったことでもう「やった気」になってしまった。
フルートを習ったとき、またまた親戚に
「吹けるようになったら聞かせてあげるね~」と調子に乗って話していた。
案の定フルートも頑張る楽しみはどこへやら、優雅に演奏しているようでなかなかきつくて「私には無理」とけっこう早々にやめてしまった気がする。
”調子に乗って”言ってしまう癖があるらしい。
私にだってできるだろう!と簡単に思ってしまうところがある。
意外と難しくて、だからと言って「言ってしまった手前~・・・」などとは思わずあっさりやめてしまう。
逆に、そうゆう自分をわかっていてあえて宣言しないときがある。
内緒で進めていく。
そうすると、大体うまくいくように思う。
なんでだろう?
考えてみた。
宣言するのは私の場合「私こんなこと頑張ろうとしてるよすごいでしょ~」という気持ちがあることに気が付いた。
人からすごいと思われたい。
私ってこんなこと挑戦できてすごい。ほめてもらえる。
そう思っていたかもしれない。
逆に宣言しないのは、宣言するとできないのがわかっていることと
良い結果を目指したいとき。
だれの為でもない、それをがんばる自分ではなくやり遂げた自分を見たい。
そうすると、なかなかストイックにやり続けることができたりする。
私の口からぽろぽろと「何か始める宣言」が出てしまった場合
やる気もぽろぽろと落ちている。
私はもうすでに続ける術を身につけている(と思われる)
万が一宣言してしまった場合、それは自慢したいだけでとくに自分がやりたいことではないのだとゆう判断もできるのだ。
一人を楽しめる?
今年はハイキングにハマっている。
3回目のハイキングへ出かけてきた。
冒険心がないのか3回とも同じコース。
飽きない??と自分で自分に問いかける。
「こう歩いてあそこでこうやって休憩して」というシナリオを作ってしまうから知っているところじゃないとなかなか難しい。
そして場所見知りもあのかもしれない。
他のハイキングコースに行ってみたいのだけど、初めてのところは一人では嫌だ。
誰かと行きたい。と思いながら、誘えるのが娘しかいない。
ハイキングが好きじゃない娘はもちろん拒否。
友達とか親とか考えてみたけど、誘ってみて「断られたらどうしよう」
「渋い顔されたらどうしよう」「日程合わせるの面倒だな」
と来たもんだ。
これだからいつもおひとり様なんだな。
今回3回目のハイキングは初めて一人で行ってみた。
(いつもの場所だから余裕がある)
一人、気ままでいいけどまったくしゃべらなくて息が詰まりそうになった。
せっかくのびのびしに出掛けたのに
「しゃべりたーい!だれかとこの気持ちよさを分かち合いたーい!」
と心の中で叫んでいた。
映画も基本一人で観に行くけど、やはり心の中では
「おもしろかったねーとかあれすごかったねーとか会話したーい!」
と思う。
思いながらも私は必ず次も一人を選ぶ。
食事も、素敵なお店には一人で入る勇気がないから食べ歩きやフードコートなどを選ぶ。
一人好きだけど、一人を楽しめてないように思う。
今考えているのは、行ったことがないハイキングコースを一人で行って
帰りに素敵なお店でごはんを食べて帰ってくること。
それを是非やり遂げたい。
そこまで到達したらそろそろ一人を楽しめるんじゃないだろうか。
家族の間でも気遣いは大事
うちにはテレビが2台ある。
食事したりくつろいだりするメインの部屋で、居間というかリビングに1台。
そして、旦那私娘が寝ている寝室にもう一台。
うちはみんなHuluをよく活用するのだけど、Huluが観れるのはリビングにあるテレビだけ。
もう社会人の次男は休日にHuluを観ることを楽しみにしていて、休みだというのに朝の4時台からリビングへと降りていく。
別に変なものを見ているわけじゃないけど、家族がいるところで自分が見たいものをつけておくのは気がひけるのか
Hulu観賞中に家族がリビングへ行くと観ていたものを消して普通のテレビ番組へ戻してくれるのだ。
休みの前日の夜も私と娘が寝室へ行くのを待って、夜ひとり時間を楽しんでいる。
(そんなに家族に見られたくない怪しいものを観ているのかと思われそうですが、私も自分が観たいドラマは一人で観たいので録画しておいたりHuluだったりでひとり時間の時に観るようにしているので気持ちはわかるのだ)
気持ちを察して、別にだれがそうしようって言った訳ではないけど
「あ、もう上(寝室)行くから観てていいからね」とか
「出かけるからゆっくり観といて~」とか
旦那も私も、次男になるべく声掛けしてゆっくり観れるようにしてあげている。
と、これを書いていて気が付いたけど
こうやってるから居心地はまぁまぁ悪くなく一人暮らしする気にならないのだろうか。
うちは食事するときとなにか話すとき以外はみんな自分の部屋へこもるので
(旦那は寝室w)
基本リビングにいるのは私と娘だ。
二人で占領している。
テレビも自由に観れて(娘がいたらほぼYouTubeしか流れてないけど)
お菓子食べたりコーヒー飲んだり(2階の各自の部屋は虫対策で食べ物禁止にしてる)
お腹すいて冷蔵庫あさったり
気ままに過ごせるリビングが一番最高である。
そんなリビングだからこそ、休みの日くらい占領させてあげてゆっくりできたら
インドア派なうちの家族には一番の安らぎとなる。
そんな風に家族内でもお互いに気を使いながら過ごすから、なんとなく心地よく
過ごしやすいんじゃないかと思う。
(そして次男の一人暮らしはまだまだなんだろうと思う)
自分らしさ
私は、人間関係の悩みが30歳過ぎたあたりから気になるようになってきた。
それまでも、「会話できないな」とか「あまり会いたくないな」と思うことがあっても深堀することなく過ごしていた。
30歳を過ぎたあたりで、「置かれた場所で咲きなさい」とゆう本を最初に読んだのがきっかけだったと思う。
そこから自己啓発本や考え方、しゃべり方、接し方、やり過ごし方、好かれ方、嫌われる人とは、など
本を読みあさって気が付いたら家の本棚が心の問題のタイトルがずらりと並んでいて自分で驚いてしまった。
始めは本を読んだときに「こうゆう態度(言い方とか)すれば大丈夫なんだ」という自分が知らなかったことが書いてあることに嬉しさを感じて
自分もこれで人間関係に悩まなくて済む。と心が軽くなるのがわかった。
それらの本を読んだからと言って、自分が思うような態度ができる訳ではなくまた新たな問題点を自分の中に見つけてしまう。
そしてそんな今の自分に必要な本を探して「これさえ読めば私が改良できるはず」と注文した本が到着するの待ちわびている。
届いた本はすぐに読み終えて、数日すると内容を覚えていないということがしょっちゅうだった。
読みさえすれば私の心が変わるはずだと思い込んでいたのかもしれない。
(なので読んだことを忘れて数年してからまた同じ本を買ったこともあった)
狂ったように毎週毎週本を注文して土日はその本にすがるように読みふけって
平日に起こった自分がうまく立ち回れなかったことを本で解消しようとしていた。
40歳も半ばとなった今、どうして自分はみんなみたいにできないんだろうと思ってきたことに少し終わりが見えてきたように思う。
なにをどう改善しようとしてもできないんだとわかってきたのと、改善しなくてもいいのかもしれないと思い始めたこと。
YouTubeを見るようになって、飛び抜けて明るいユーチューバーさんが目につくけど
「内向的」とか「HSP」とか検索して出てきた人が、動画内では視聴者がわかりやすいように話してくれたりしているものの
「こんな風に物静かな感じでもいいんだ」「人と接するの苦手でもいいんだ」と思える人達を見ることが多くなった。
こんな私じゃダメだ。もっと良くならなければ。と強く強く思っていた今までがほろほろと柔らかくふやけていくような感覚になった。
人と接するのが苦痛なら、接しなくて済む方法を選んでもいい。
人と接することで自分って暗いなとかうまくしゃべれないなって思ったとしてもそれでいい。直さなくていい。
直そうとすると自分らしさが消える。他の人にはない自分の素敵なところが見えなくなってしまう。
直そうとすると、自分の気持ちがわからなくなってしまう。
世間一般に染まろうとして自分は何が好きだっけ?何がしたいんだっけ?
どう生きたいんだっけ?
どう在りたいんだろう。
私はこれから心を軽くして自分らしさを取り戻して、何者でもない
ただの私になろうと思う。
自分と心地よくいよう。自分と仲良しでいよう。自分に優しくいよう。
人間関係で悩んだら
上司から嫌われる傾向にある私。
もともと人間関係のお付き合いが上手ではないからだと考えていたけど
もう私も40代、なんでどこの職場へ行っても同じなんだろう。
不思議で仕方なかった。
今年は思考の学校の大石洋子先生の本を読む機会と出会った。
本の帯には「世界はあなたの思考で成り立っている!」と書かれている。
なにそれそんな訳ないじゃない。
どうゆう意味??
そしたら本の中にはね、私が今までずっと不思議だった目上の人とうまくいかないことについて書かれていた。
潜在意識の中に人を下に見る傾向があると自分も軽く扱われるって
人とうまく行かないのは、親を見下していたりするとのこと。
なんてドンピシャなことが書かれているんだ。
そう、まさに自分は父親を見下していたかもしれない。
今はもう父は亡くなっているし、自分が小学生の頃に両親は離婚したから私が父にどんな接し方をしていたか覚えていない。
離婚して父親のダメなところを聞いて育ったから、きっとバカにしていたかもしれないな。となんとなく思う。
そうゆうことが、今関わる自分のまわりとの人間関係に影響が出てきてしまう。
ものすごく深い。私は改善できるのだろうか。
ただ思うのが、自分が暗く落ちているときに人と接したときの相手との空気感と
自分がなんだかものすごくハッピーで人生バラ色な気持ちで接したときの空気感と言うのは明らかに違うことに気が付いた。
家でも職場でも近所の人でも買い物するときのレジの人でも
自分の気持ちが明るいと、相手の態度が多少悪かったとしても自分の気分が落ちることはない。
相手の態度が気に入らない、とか
なんであんな態度するんだ、なんて思うことがない。
自分がイラっとしないから自分は不機嫌にならないし、不機嫌な態度もしないから相手との不機嫌ループに陥ることもない。
そう考えていたら、やっぱり自分の思いは相手に影響するということになる。
親をバカにしていたかもしれない私は、人を無意識にバカにして今まで仕事してきたのかと思うとものすごく恐ろしい。
そうゆう態度が今まで出ていたのなら人間関係も難しくなるのは当たり前だ。
では、改善していくにはどうしたらいいのだろう?
それは、親のいいとことを思い出すことと書いてある。
嫌いなところ、ダメなところばかりを今まで思い出していたけど
いい部分を思い出して、「こんな風にしてくれたことがあったよね」
と忘れていた記憶がよみがえっていいところがどんどん出てくる。
そして「今まで誤解しててごめんね」「大事にしてくれてたんだね、ありがとう」とゆう気持ちになれたら目の前の世界は今までとは違うものになっているかもしれない。
大石先生の優しい語り口調もとても癒される。
YouTubeもあります。(検索してみてね)